花魁が履く高下駄は普通の下駄とどう違う?なんのために履いたもの?

 2025年1月から放映されたNHKの大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』でもお馴染みの花魁道中ですが、実際に花魁道中を目にしたことがあるという方はどれほどいらっしゃるでしょうか。花魁道中は豪華な衣装やヘアスタイルはもちろん、主役の花魁が履いている高い下駄はなかなかインパクトがあります。さらに、高下駄での歩く所作にも独特のものがあり、「なぜあんな不思議な歩き方をしているのだろうか」と疑問に思われた方もいるのではないでしょうか。

今回は、花魁が花魁道中で履いていたとされる高下駄について詳しく解説していきます。

目次
  1. 花魁と高下駄
  2. 花魁とは
  3. 花魁道中とは
  4. 高下駄とは
  5. 高下駄での歩き方
  6. 下駄について
  7. 下駄とは
  8. 下駄の歴史
  9. 花魁の下駄の変遷
  10. 最初から下駄だったわけではない?                    
  11. 駒下駄から三枚歯下駄(高下駄)へ
  12. 現在の花魁道中
  13. 現在の花魁道中で用いられる高下駄
  14. 各地の花魁道中
  15. 日光江戸村の花魁道中
  16. 花魁の高下駄を購入することはできる?
  17. 花魁の高下駄は購入できる?
  18. 花魁の高下駄のレンタルはできる?
  19. まとめ

花魁と高下駄

ここでは、花魁とは何か、花魁道中とは何か、また花魁道中の際に履かれた高下駄とは何かについてまとめています。

花魁とは

「花魁(おいらん)」とは、主に江戸(江戸の吉原)の遊郭で用いられた遊女の別称で、特に最高位の遊女の呼び方でした。
元々、上級遊女である太夫(たゆう)のことを、これに付き従う新造(しんぞう)や禿(かむろ)が「おらが太夫」や「おいらの」と呼んでいたのが訛って「おいらん」となったと言われています。
ちなみに、京都(京都の島原)では、最高位の遊女のことを太夫(たゆう)と呼んでいました。太夫には知性、教養、芸事などが、師範になれるぐらいの高い水準で求められ、花魁以上に太夫になるのは大変だったそうです。

花魁道中とは

花魁道中とは、花魁を始めとする上級遊女が従者を供にして、盛装姿で往来する様を言います。花魁道中ができるのは、最高位の「呼び出し昼三」で、定紋入りの箱提灯を持った若い者に先導され、二人の禿(かむろ)と共に外道を練り歩きました。滅多に外に出ることのない花魁が外に出て歩くというだけで、うわさの花魁を一目見ようと男女関係なく人がどっと集まったと言います。花魁道中は花魁が外を歩いて顔売りやお披露目をする目的で行われることもあれば、上客のお迎えのために行われることもあったようです。

高下駄とは

花魁道中の目玉とも言えるのが、花魁の優雅な歩みです。高さ18cm以上もある黒塗りの畳付き下駄、通称「高下駄」または「道中下駄」、または「三枚歯下駄」を履きこなし、一糸乱れぬ様相でゆっくり歩いていく花魁の姿は、実に艶やかなものであったことでしょう。

花魁道中に出掛ける際、花魁は必ず道中下駄(高下駄)と呼ばれる下駄を履きました。この下駄は、通常の下駄よりもはるかに高さがあり、安定感を出すために下駄の歯も二枚歯ではなく三枚歯となっているのが特徴です。そこから、花魁の下駄は「三枚歯下駄」などと呼ばれることもあります。高下駄は裾広がりになっているというのも特徴で、今でいうところの厚底サンダルに通じるものもあるように感じることでしょう。しかし、厚底サンダルは厚底部分が軽い素材で作られているのに対し、下駄は全て木材で作られているため重いです。どれぐらい重いのかというと、片足だけで2kg近くあったのではないかと推察されています。ちなみに、現在の花魁イベントで用いられる高下駄の重さは高さ15cmのもので片足1.2kgほどだそうです。

では、なぜこのような実用性に乏しい下駄が花魁道中では使われていたのでしょうか。

花魁道中での高下駄の役割には諸説ありますが、まずは豪華な着物の裾を汚さないために高い履物が必要だったということが挙げられます。江戸時代の道は、現在のようなアスファルトではなく、整備など一切されていませんでした。泥水、ぬかるみ、汚物などがそこかしこにある中で、高級素材をふんだんに使った豪華な着物を引きずって歩くわけにはいきません。そのため、着物の裾が泥に付かないよう高さのある下駄が履物として選ばれたということです。

また、花魁道中では、注目の花魁を人々に披露する目的もありました。できるだけ目立たせ、遠くの人にまで顔が見えるようにするには、やはり高さのある履物が必要だったのです。

そして、高下駄の重さが重くなったのは、花魁の衣装や鬘(かつら)の重みに耐えるためだったと考えられます。花魁が着る豪華な打掛や帯、下に着る小袖など、衣装の重さは総合して30kgほどになり、さらに高さのある鬘や髷はかんざし含めて10kg以上はありました。自分の体重以外にさらに40kgの重さに耐える、高さのある下駄となると、二枚歯よりも三枚歯にして、より強度を高める工夫がされたのは言うまでもありません。重みで前に倒れないよう、高下駄の前歯は台先端から付けられているというのもポイントです。

 高下駄は下駄の一種ではありますが、花魁道中を支える、とてもよく工夫された下駄であるということが分かったのではないでしょうか。

ところで、高下駄は必ず素足で履かれていました。現在、下駄というと夏に履く履物であることから、涼を取るという意味においても裸足で履くものというイメージが定着しているかもしれません。しかし、花魁が高下駄を素足で履くというのは涼を取るためではありませんでした。実はこの当時、まだ足袋というものが定着しておらず、高齢者や一部上流貴族、能役者などの芸者にのみ許された履物だったのです。それ以外で足袋を履くためには、「足袋御免」という許可が必要だったのです。
足袋がまだ一般的では無かったことに加え、裸足に下駄というのが粋な装いと考えられていたことから、花魁は高下駄を素足で履いていたようです。

高下駄での歩き方

片足に2kgの重りを付けた状態で普通に歩くというのはなかなか難しいということもあり、高下駄独自の歩き方というのが確立されていきました。それが「八文字歩き」です。
八文字歩きは外八文字と内八文字の二通りがあり、江戸吉原では外八文字歩きが主流、京都島原では内八文字が主流と、場所によって差がありました。花魁道中の歩き方の作法は、代々先輩から教わって習得していったそうですが、八文字歩きを優雅にこなせるようになるには3年間の修業が必要だったと言われるほど難しいものだったようです。

ちなみに、花魁道中途中で転んでしまったり、下駄が脱げてしまったりした場合は、最初からやり直しになりました。いかに自然な所作と共に、優雅に八文字歩きができるかどうかで遊女の格も決まっていったということなのです。

 花魁道中は、高下駄の履きこなしで優劣が付けられたと言っても過言ではありません。40kg以上もある着物の衣裳を着て、さらに片足2kg近くある高下駄で、顔色一つ変えずに歩くというのはなかなかできることではありません。重さや痛みに耐える忍耐力、また花魁道中のルールにのっとって誰かと目を合わせることなく、ゆっくり美しく歩みを進める精神力が花魁には求められたのでした。一流になるというのは、どこの世界でも並大抵の努力ではなれないということがよく分かりますね。

下駄について

花魁が履いていた高下駄について深く掘り下げていく前に、そもそも下駄はいつ頃から履かれていたものなのか、下駄の定義についてここで確認しておきましょう。

下駄とは

下駄というのは、木製の台部に鼻緒を付けた履物の総称です。さらに細かく履物分類するのであれば、鼻緒履物類に属しているとも言うことができます。
木製鼻緒履物類の総称には古くから「あしだ」、「ぼくり」、「げた」の3種が使われてきました。もっとも古い呼称である「あしだ」は江戸時代頃まで使われていた言い方だそうで、漢字にすると「足駄」が当てられていました。
「ぼくり(木履)」は室町時代前からも使われていた言葉ですが、室町時代を境に意味するものが変わりました。室町以前では主に浅沓(あさぐつ)を指していたのに対し、室町以降は下駄のことを指すようになったのです。そして、江戸時代に入ると「あしだ」や「ぼくり」と呼ばれることが無くなり、総じて「げた」と呼ばれるようになりました。漢字では「下駄」と書きますが、これは「あしだ」に「足駄」という字が当てられたこから「駄」という文字が履物の通用字になったこと、さらに下で履くものだからと「下駄」という漢字が当てられたことに因んでいます。

ちなみに、江戸時代に「下駄」という言葉がもっぱら使われていたのは京阪地方です。連歯(れんし)も差歯(さし)も、歯の高低にかかわらず「下駄」と呼んでいました。より細かく分類する際には、「高下駄」や「差下駄」など種類に応じて呼び方を違えていたようです。

これに対して江戸では、差歯のたけの高いものというのは「足駄」と呼び、連歯や差歯のたけの低いものは「下駄」と呼んで、明確に区別していたそうです。

下駄の歴史

下駄はかなり昔からある履物でした。弥生時代の遺跡から、田下駄と呼ばれる水田耕作のために使われるものが見つかっています。下駄そのものというよりも用具の一種ではありますが、下駄の原型となったであろうと考えられています。これが古墳時代に進むと、明らかに下駄だと認識できる履物が使われるようになります。実際、古墳遺跡から出土したものの中に下駄のような履物を確認することができます。

下駄が男女共にわたって広く普及したのは江戸時代に入ってからでした。鎌倉時代から室町時代の間も、絵巻物に下駄が描かれていることを確認できるので、一部の人々の間で下駄が履かれていたことが分かります。

江戸時代初期の下駄は、それまでの時代から続いてきているたけの高い差歯下駄が主流でした。これが、貞享(1684-1688)の頃には、一本作りの駒下駄へと変化します。続く元禄(1688-1704)の頃には、駒下駄人気が後押しして、女子の下駄が賑わいを見せるようになります。桐台の下駄、塗下駄表打下駄、鼻緒も布や皮が用いられるなど、どんどんお洒落になっていきます。

享保(1716-1736)の頃には、僧侶や医師、武士など、男性ものの下駄が流行するようになりました。下駄に使われる木材や鼻緒に使われる素材はどんどん高級指向になり、ついには奢侈禁止令(贅沢禁止令)に触れるところとなりますが、規制の目をかいくぐりながら、下駄はどんどん発展していきました。

江戸時代末期にもなると、下駄の種類が大幅に増え、吉原下駄、羽虫下駄、引付下駄、中折下駄、堂島下駄、船底下駄、草履下駄、半四郎下駄など、さまざまな種類の下駄が生み出されたのでした。

花魁の下駄の変遷

下駄そのものの変化や発展にも興味深いところがありましたが、花魁の下駄にも大きな変化などはあったのでしょうか。

最初から下駄だったわけではない?                    

下駄自体は古くからありましたが、主に江戸時代に入ってから下駄が著しく発展していったというのはここまで確認してきた通りです。さて、花魁が履いていたと言われる三枚歯の高下駄ですが、かなりの加工技術が必要だったであろうことは想像に難くないでしょう。とすると、下駄そのものが発展していく中で、花魁の高下駄も作られるようになったと考えるのが自然だと言え、吉原の遊郭が始まった1617年頃の江戸初期時代にはまだ道中下駄がなかった、下駄では花魁道中していなかったのではないかと考えるのが腑に落ちるところではないでしょうか。もっと言うのであれば、京都の島原の遊郭は安土桃山時代から始まっているので、花魁道中は下駄ではない別の履物で行っていた可能性がとても高いのです。

京都の島原では、すでに花魁道中の歩き方は内八文字と呼ばれる、つま先を八文字にしながら歩く独特の歩き方が採用されていました。これが、江戸の吉原の人気花魁の一人である勝山(現役遊女期間1652-1658)の登場で変化が現れます。

勝山は、勝山髷などさまざまな独自のスタイルを確立したことでも知られる花魁ですが、八文字歩きに関しても独自のスタイルを確立したのです。それが、外八文字と呼ばれるものでした。外側に大きく足を回しながら歩くスタイルで、着物の裾の広がりが美しくなることから、外八文字は人気を博すようになり、江戸の花魁道中では外八文字歩きにするのが主流となりました。この30年後にようやく駒下駄が登場したことを考えると、勝山が外八文字を提唱した頃もまだ下駄での花魁道中ではなかったと推察できます。

そして、花魁の芙容という人物が、駒下駄を花魁の履物に採用したことから、花魁道中の履物が下駄へと変化していったのです。

駒下駄から三枚歯下駄(高下駄)へ

駒下駄が普及し、女物の下駄が流行した後、三枚歯の履物というものが登場しました。初期の三枚歯の下駄は、真ん中の歯に穴をあけて針金で固定するというものだったようです。同じ頃に初演された歌舞伎の『助六』に登場する履物にも三枚歯のものが使われていたそうで、ここから花魁の履物に三枚歯の下駄が加わったのではないかと考えられています。花魁向けにはさらに強度や高さなどの工夫がなされ、道中下駄としてのフォルムを確立していきます。

特に、歌舞伎役者である五代目の岩井半四郎(1776-1847)の登場で、花魁の下駄は一気に発展していきました。江戸一の女形として人気を博した半四郎は、黒漆塗の三枚歯の高下駄を花魁役の際に愛用しました。これも瞬く間に人気となり、「半四郎下駄」とまで名前が付いて、花魁内でも人気が出たそうです。

この頃には、高下駄の高さで遊女の格が表されるようになっており、階級ごとに1.5cmずつ差を設けていました。

ちなみに、花魁文化最盛期の高下駄の高さは40cmに迫るものがあったそうですが、高すぎてバランスが悪いということから30cm前後に落ち着いていったようです。

現在の花魁道中

現代でも花魁道中を目にすることはできます。イベントとして毎年各地で花魁道中が催されている他、テーマパークなどでパレードの一種としての花魁道中を見ることができるのです。

現在の花魁道中で用いられる高下駄

現在の花魁道中で用いられる高下駄の高さは大体15cm前後と言われており、重さは片足1.2kgほどになっています。花魁役は毎年素人さんが選ばれるので、素足で八文字歩きの練習、実際に高下駄を使用してバランスを取る練習、高下駄を履いて八文字で歩く練習を重ねます。また、花魁道中では肩貸と呼ばれる男性と共に歩みを進めていくので、呼吸を合わせる練習などもして、本番を迎えることになります。

各地の花魁道中

花魁道中は毎年の恒例行事として行っているところもあれば、単発的に行うところもあります。小江戸の名で親しまれる埼玉県の川越では、毎年3月になると「川越 春まつり」で花魁道中が披露されます。熊本県では、毎年10月頃に行われる熊本城の坪井川園遊会「秋の宴」で花魁道中が披露されます。

このように全国各地で花魁に関するイベントや花魁道中が披露されているので、気になる方はぜひイベントをチェックしてみてくださいね。

日光江戸村の花魁道中

花魁道中を定期的に行っているところもあります。栃木県にある日光江戸村という江戸の街並みを再現した歴史型テーマパークには花魁ショーがあり、花魁道中がパレードの一種として披露されます。時期によっては、特別ショーが組まれており、花魁ショーが見られないこともあるので、行く予定があるという方は、事前にイベントやショーの情報を確認しておくと安心です。

花魁の高下駄を購入することはできる?

花魁が履いていた高下駄、機会があるなら履いてみたいと思われた方もいるのではないでしょうか。

花魁の高下駄は購入できる?

花魁の高下駄のようなフォルムの履物は売られており、通販でも手に入れることができます。しかし、江戸時代のもののように重く作られているわけではなく、あくまでもコスプレ用、もしくは撮影用として使うためのもののようです。鼻緒部分も脆弱になっているので、台部分の重さがないとは言え、ガッツリ歩いたり、走ったりするには不向きと言えます。

ちなみに、花魁の高下駄のような履物の相場はだいたい6000円前後です。

花魁の高下駄のレンタルはできる?

花魁の高下駄のレンタルをしているところはあります。レンタル用の高下駄は本物に近いものであるため、全長24cmでかつ片足1.6kgという、ずっしり重いものになっています。これだけ重さがあるので、歩行用というよりは、撮影用に使うためのものと認識しておくと良いでしょう。実際、レンタルページにも「撮影用としての貸し出し」と注意書きがあります。ちなみに、レンタル料は2万円とお高めです。

まとめ

花魁が花魁道中で履いていたとされる高下駄について解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。

下駄の歴史や花魁の高下駄の歴史、また歌舞伎との密接な関りなど、興味深い話もあったことでしょう。京都には花魁体験ができるお店などもあるので、本格的に花魁の格好をしてみたいという方や花魁の重い履物、三枚歯下駄にチャレンジしてみたいという方は、ぜひ遊びに行ってみてくださいね。

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