江戸の着物ファッションを進化させた小袖とはいったい何?現在の「きもの」との違いとは?小袖の歴史を詳しく解説

博物館などで「小袖(こそで)」と呼ばれる、古い衣服を目にしたことはありませんか。形はどことなく着物のようでありながら、それよりも小ぶりのように見えるため、我々が現在も袖を通すことのある着物とどういう関係があり、具体的にどういった違いがあるのか、気になられた方もいるのではないでしょうか。

今回は、「小袖」について、小袖とはいったいどういった着物なのか、誰が着ていた着物なのかといった知識はもちろん、歴史について詳しく解説していきます。

目次
  1. 小袖とは何?
  2. 小袖とは
  3. 「小袖」という名の由来
  4. 小袖の形態上の特徴
  5. 小袖の歴史
  6. 平安時代
  7. 武家社会の台頭と応仁の乱
  8. 応仁の乱から安土桃山時代、から江戸初期にかけて
  9. 江戸時代前期・中期の小袖
  10. 江戸時代後期以降の小袖
  11. 初期小袖について
  12. 初期小袖の形態上の特徴
  13. 初期小袖の着装法
  14. 初期小袖の意匠
  15. 初期小袖に用いられた裂地素材
  16. 初期小袖に見られる模様
  17. 江戸時代の小袖の発展
  18. 江戸時代の小袖の形態上の変化
  19. 江戸時代の小袖の模様・柄構成の変化
  20. 小袖から振袖へ
  21. 明治期以降の小袖
  22. まとめ

小袖とは何?

そもそも小袖とはどういったものなのかについて解説していきます。

小袖とは

小袖は、現在の「きもの」といっている衣服の古い呼称であり、着物の原型ともいえるものです。日本の衣服の歴史においても大変重要なポジションに位置する衣服として認識されています。

「小袖」という名の由来

「小袖」という名称は、その名の通り、袖口の大きさにちなんで付けられたものです。

衣服の中でも筒袖のように袖口の狭いものを「小袖」と呼び、袖口の広い装束「大袖(広袖)」と区別されていたのです。

小袖の形態上の特徴

名前の由来になっているように、袖口が詰まった小形の袖は小袖の最大の特徴と言えます。また、身巾が広かったことから、前身頃のうち左側が右側の上に大きく重なり、衽もありました。身丈は現在の着物よりも短く、対丈で着るのが通例でした。ただし、身丈に関しては江戸中期頃から徐々に長くなり、明治頃には今の着物の身丈長さになったとされています。それに伴い、小袖全盛期には見られない、お端折(おはしょり)もこの頃に生まれました。

小袖の歴史

「小袖」という言葉は平安時代からあったと言われています。平安時代から、江戸時代の元禄の頃まで、発展し続けていたと言われる小袖の歴史についてみていきましょう。

平安時代

小袖は元来、一般の庶民が着ていた粗末な一枚着でした。一部式仕立ての簡単な衣服で、素肌に一枚で着ていたと言われています。寒い時には二枚、三枚と重ねることもありました。
この頃の小袖の袖口は、仕事や作業がしやすいように、袖なしか筒袖にしたものがほとんどでした。いずれも袖口は作業の邪魔にならないよう詰まっており、振りもありませんでした。

この非常にシンプルな衣服に着目したのが公家貴族たちでした。小袖は、自分たちの長大な衣服を何枚も何枚も重ねて着る装束における、ちょうど良い防寒下着になると考えられたのです。そこから、公家貴族らが着る装束の下着としての白小袖が誕生したのでした。これはちょうど保元・平時の乱(1156年)の頃だったと言われています。

武家社会の台頭と応仁の乱

時代と共に、公家貴族の衣生活は簡略化されていきます。日常の普段着においては、下着として普及し、使用されていた小袖が内衣化、さらに中衣化し、最終的には表着化(うわぎか)していったことが分かっています。これは、普段着る際に、外衣をつけずにいることが多くなったことで、下衣の小袖が事実上の外衣に変化していったことに由来していると考えられています。

その一方で、武家階級の台頭と社会の変動によって、下級階級武士の衣服の格上げが見られるようにもなります。もともと庶民の粗末な一枚着であった小袖も、徐々に袖下にふくらみが見られるようになり、この頃には上質な表着へと変化していたのです。

庶民が愛用していた小袖からの流れと、公家貴族の下着として用いられていた白小袖の流れという二つの違った背景を持つ小袖は、応仁の乱(1467-1477)を境に一元化され、ここで日本の服装は小袖形式に統一されることになるのです。つまり、全ての階級で小袖が表着として用いられるようになったのです。

応仁の乱から安土桃山時代、から江戸初期にかけて

日本の服装の形式は応仁の乱以降、小袖形式に変わります。そして、応仁の乱から室町時代末、安土桃山時代、から江戸初期にかけての時代に見られる小袖を「初期小袖」と呼ぶことが多いです。初期小袖の代表的なものの一つに、永禄9年(1566年頃)の銘がある「辻が花染め小袖」があります。
初期小袖は、まだまだ作業にも向く、活動的な衣服としての役割が残されており、特に袖部分はやや短めだったことが特徴として挙げることができます。

江戸時代前期・中期の小袖

江戸時代の前期になると、小袖のファッションブックともいうべき『小袖模様ひな形』の刊行が盛んになります。ひな形本の刊行は、1666年から1667年の『新撰御ひいなかた』が最初のものとされていますが、それ以前の1661年には肉筆のひな形図が伝えられているなど、小袖ファッションブックが賑わいを見せていました。

小袖のファッションブックができるほど、この頃の小袖は文様や柄構成に発展が見られ、小袖に用いられる技術も複雑な技法が見られるようになります。しかし、奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が度々発令されたことによって、豪華絢爛な装飾技法は控えられ、別の技法が生み出されるなど、小袖の文様技術、装飾技術、染色技術は発展していったのです。友禅染が発達したのもちょうどこの頃です。

また、江戸時代の中期に入ってから、女物の小袖の裾の長さは徐々に長くなり、裾を引き、帯は腹部をおおってしまうように幅広に締める着装法が好まれるようになります。いわゆる対丈の小袖から、現代の着物へと変化していく、そんな転換期となったのです。

江戸時代後期以降の小袖

小袖の形は江戸時代の元禄の頃(1688-1704)に完成形を迎えたと言われており、元禄以降の小袖の形には変化が見られません。そして、完成形を迎えた小袖の形は、現代の着物と基本的な点でほとんど同じ形となったとされています。袖幅と身幅の比は現代の着物のそれとほとんど差がなくなり、裁断方法もほぼ同じになっています。立褄も長くなると同時に、衽幅も修正されて現在の着物のものとほぼ同じサイズです。袖口は元禄の頃に急に7、8cmほど広くなったのですが、現在の着物の袖口はそれにならっていると言われています。

初期小袖について

ここまで大まかに小袖の歴史とその変遷についてまとめてきました。ここでは、その歴史の中でも特に重要とされる「初期小袖」について詳しく解説していきます。

初期小袖の形態上の特徴

初期小袖はどんな形をしていたのか、その特徴について一覧にまとめています。

・袖幅が広く、身巾が広い

・衿肩あきが狭い

・衽下りが少ない

・立褄が短い

・衽幅が広い

・裄が短い

・袖口が狭い

・袖丈が短い

・身八つ口がない

・後身幅と前身幅とがほぼ同寸

ここから、身八つ口が付けられて身幅が狭くなり、袖丈も徐々に長くなるといった小袖の形態上の変化が出て、今の着物の形にどんどん近づいていきます。それに伴って、小袖の模様や柄の入り具合も、総柄だったものが肩裾模様や裾模様へと、デザイン自体も変化し、締める帯も巾が広くなって、結び方にも種類が生まれるなど、小袖ファッションがどんどん進化していったのです。

初期小袖の着装法

上記のような特徴を持った衣服をどのように身にまとっていたのか気になるところでしょう。初期小袖は、胴を包む部分は裾回りの長さが2m以上にもなっていたため、これを適当に整えて細い帯で締めていたのではないかと考えられています。また、衿肩あきの部分が狭かったこともあり、衿は首に巻きつくように、きつめに合わせていたとされています。

全体的には、ゆったりとしつつも締まりのある恰好であり、活動に便利な機能的に優れた特徴を持った衣服であったことが分かります。

初期小袖の意匠

応仁の乱の後一元化されたとは言え、初期小袖には公家貴族ルートの小袖、庶民ルートの小袖と小袖の意匠に関しては、二元性がはっきり表れていました。

公家貴族由来の小袖、いわゆる白小袖から発展した小袖は、白地が意識的に残された柄構図の意匠が多かったそうです。肩と裾だけに模様を付け、中間部を空白にした肩裾模様はその代表例で、上に衣服を重ねた場合でも見える可能性のある肩部分と裾部分にだけ模様を入れるというお洒落工夫がなされていたのです。

庶民由来の小袖は、裂地を無駄なく、大切に取り扱う寄せ裂仕立てなどの民間衣を思わせる意匠や簡単な色や模様が全体に入っている意匠へと発展していきます。片身替り、袖替り、段といった意匠は、ここから発展したと言われています。

また、この庶民小袖から発展したと思われる衣服全体に模様が散在する衣装は、その後の小紋模様へと変化していきます。小紋が普段着(カジュアル着)として着られるのは、こうした背景があるからなのかもしれませんね。

初期小袖に用いられた裂地素材

初期小袖に多く用いられた裂地は、「練緯(ねりぬき)」と呼ばれるものです。練緯は、経糸に精錬しない生糸を、緯糸に精錬した練糸を用いて手織った平絹のことを言います。緯糸が比較的太くて、裂全体に張りが出て丈夫さがあり、さらに独特の光沢も庶民や武家に人気があったようです。

また、公家貴族は下着の白小袖に使われていた羽二重のような柔らかな触感の平絹を好んだようで、特に染小袖には経糸緯糸共に精錬した練糸が使われた平絹の裂が多く用いられました。

他にも、節織、紬織、綾・紗織といった素材の裂地が、初期小袖の生地として使われています。

初期小袖に見られる模様

初期小袖に見られる模様の題材は、花、花鳥、鳥獣、風景、器物などです。元来は中国由来の吉兆文様の組み合わせ(松竹梅や菊など)であったものを日本風にアレンジしていったのもこの時代だったとされています。模様は、描絵技法が用いられ、それ以外にも刺繍、摺箔、縫箔といった技法で装飾がされていました。染めの技法は早くからあったこともあり、室町時代には小紋染めなどの型染技術はかなり進歩していたと言われ、幻の染めと言われる辻が花染めが作られたのもこの時代でした。

江戸時代の小袖の発展

初期小袖が江戸時代に入ってどのように変化していったのかを詳しく見ていきます。

江戸時代の小袖の形態上の変化

袖幅が狭かった初期小袖に比べ、江戸初期の小袖の袖幅はかなり広くなります。これは、裄が長くなったことも影響していると考えられます。狭かった衿肩あきも徐々に広くなり、首元に緩みが生まれました。

初期小袖に比べて、着装した時の感じはあまり締まりの良い恰好ではなかったようで、動作の上でも不便があったのではないかと考えられています。

それが江戸中期頃になると、現代の着物のような形に非常に近いものへと変化します。

江戸時代の小袖の模様・柄構成の変化

初期小袖時代に小袖の模様や柄構成は随分進化をみせましたが、慶長の頃(1596-1615)には全体文様の発展が顕著になります。絞り染め技法で、地を何色にも染め分け、さらに刺繍なども施し、地が全く見えなくなるほど緻密な装飾をする「地無し小袖」などが編み出されました。描かれる模様は吉祥もの、季節柄が多かったようです。

ちなみに、この頃に着物の生地素材の代表格として知られる綸子が西陣で織られるようになったと言います。その後、江戸時代の女性ものの着物の生地素材のほとんどは綸子が用いられるようになり、男性の着物の生地素材には紗綾、龍門、羽二重といったものが用いられることが多くなりました。

寛文の頃(1661-1673)になると、それまでの全体文様とはまた一味違う、ダイナミックでありインパクトがある柄構成が流行ります。上半身の一方の肩から曲線を描くようにして斜めに模様を配するなど、現在の絵羽模様に繋がる柄構成がこの時代から見られるようになります。模様の技法に関しては慶長のものとほとんど変わりませんが、意匠構成がとても独特であることから、この時代の小袖を「寛文模様」や「寛文小袖」などと呼ぶこともあります。

元禄の頃(1688-1704)になると、寛文小袖よりも余白スペースが小さくなり、文様率が高くなります。高度経済成長にあったこの時代、より華やかなものが求められた結果、小袖の柄や装飾もより華美なものが求められたのでした。
その中で生まれたのが、鹿の子絞り(匹田絞り)と刺繍で、特に鹿の子絞りは非常に手間が掛かる技法であったため、贅沢品として認識されるようになります。
それが奢侈禁止令に触れるところとなり、やむなく型染によって鹿の子絞りの模様を表す型匹田の技術が考案され、進歩していきました。中には、本物の鹿の子絞りと識別困難な精巧なものまであったようです。型染か本鹿の子絞りか判断がつかなくなってきたということもあり、奢侈禁止令により全面的に鹿の子絞りが禁止されるようになった裏では、友禅染が発達し、小袖およびその後の着物の染め技法として大いに重宝されることになります。

元禄時代の小袖は柄構成が変化すると共に、模様にも変化が見られるようになります。これまでは季節ものや吉祥ものがほとんどだったのですが、元禄の頃から、伝説や伝承、故事ことわざなどによる絵模様の種類が爆発的に増加します。年中行事に関連した絵模様や物語など、絵模様の意味するところが説明的であるならば、描写も写実的で詳細なものへと変化していったのです。その結果、元禄の頃から小袖に用いられる模様やモチーフの幅、ジャンルは、かなりの広がりを見せることになります。

元禄以降の小袖は、より裾が長くなり、幅広い帯が用いられるようになったことで、帯部分にはできるだけ模様が出ない、上下模様構成へと変化していきます。二分された上下の上半身には模様がごく少ないか、無地、もしくは無地に家紋か伊達紋だけを入れるなどになり、下半身部分は、両褄から裾に掛けてだけ模様を置く褄模様や裾回りだけに模様がある裾模様などが小袖の柄構成として好まれました。これは、現在の着物の柄構成にも似ているところがあり、どこか親近感がわくのではないでしょうか。

小袖から振袖へ

我々が今「振袖」と呼び、親しんでいる着物は、もともと振りの付いた小袖、すなわち「振付小袖」と呼ばれるものだったと言われています。元々子供用の着物には振りのあるものもありましたが、今のように袂が長い振袖に変化していったのは、江戸時代特に中期以降からだったのです。

振袖が出来上がった背景には、袂を豊かに見せたいという女性のファッション意識があったからとも言われています。袂を豊かに見せるために、自然と袖付けを少なくして、ここに振りというものを作るようになり、これが今の振袖の原型となったのでした。

万治の頃(1658-1661)には、振りが57cmほどに、その30年後の貞享の頃(1648-1688)には、振りが73cmほどに、享保の頃(1716-1735)には振りが91-95cmほどに、宝暦(1751年)以降には振りが106cm-110cmほどにと、どんどん長いものへと変化していったのです。

江戸後期にもなると、大名旗本あるいは京都や大阪の富豪の娘たちは日常的に振袖を着るようになったと言います。中流以上の市民の娘たちは、略装の時には57cm-61cmほどの振りを持つ中振袖を着て、平服との変化を出していました。

ちなみに、この当時の小袖というと、絹の綿入れのことを言い、木綿の綿入れである布子(ぬのこ)と区別していました。

明治期以降の小袖

平安時代から江戸時代までずっと発展し続けてきた小袖は、明治に入っても普段着や武家の装束として利用されていました。しかし、欧米文化と共に洋装文化が入ってきたことで、江戸時代に見せた勢いは影を潜めます。その後は、日本の伝統的な装束としての着物として確立され、現在に受け継がれてきました。

まとめ

小袖について解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。
小袖は、さまざまな流行を作り出し、帯や着装法とも関連して発展し、現在の一般的なきものへと変化してきたことが分かりました。

時代ごとに、いろいろな発展があったというのは大変興味深かったのではないでしょうか。

もし、どこかで小袖を見る機会がありましたら、ぜひ今の着物との違いを比べてみて下さいね。

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