武士が愛用した装束「水干」とはどんな着物?

時代衣裳や流鏑馬の射手の装束として用いられる「水干」という着物をご存知でしょうか。静岡県の掛川市で作られる名産品、「葛布」を使って作られる装束の一つとして知っている方もいらっしゃるかもしれません。現在、「水干」を日常着として用いる方というのはいらっしゃらないでしょう。しかし、当時はファッション性にも富んだお洒落な着物だったようで、武士からとても人気が高かったようです。今回は、この「水干」について詳しく解説していきます。

目次
  1. 水干とは何か
  2. 水干は平安時代、鎌倉時代に着られた装束
  3. 水干の形状・素材・地色
  4. 「水干」という名の由来
  5. 水干の歴史
  6. 狩衣から水干へ(平安時代12世紀頃)
  7. 水干の最盛期(鎌倉時代)
  8. 水干の装い方
  9. 水干ファッション
  10. 水干の種類
  11. 童水干(わらわすいかん)
  12. 水干狩衣
  13. 走水干(はしりすいかん)
  14. 長絹の狩衣(ちょうけんのかりぎぬ)
  15. 現在の水干
  16. 女性神職の装束として
  17. 流鏑馬の射手の衣裳として
  18. まとめ

水干とは何か

水干とはそもそもどんな着物で、誰がどんな時に着用していたものなのか、水干の基本情報についてみていきましょう。

水干は平安時代、鎌倉時代に着られた装束

平安時代から鎌倉時代にかけて、都に住む庶民たちが着用していたものが「水干」と呼ばれる着物でした。地方から出てきた武士たちの目に、この水干はお洒落で風流なものと映ったようで、水干を好んで用いるようになりました。都風の普段着として水干は好まれ、そこから武士の装束へと変化していったのです。

水干の形状・素材・地色

一般庶民の日常着として用いられていた水干は、色のバリエーションも少なく、また素材も良いものは用いられていませんでした。これを武士が好んで着るようになると、鮮やかな裏地を付け、使用する生地も葛布の他に、豪華な絹織物や華麗な綾織物、錦も用いられるようになりました。地色も香染(こうぞめ)、萌葱(もえぎ)、紺、藍、青色、紅、白などいろいろで、模様も描き絵、縫物、巻染、紋染などの草花、器具などが自由に用いられたのです。 

水干の形式は、狩衣(かりぎぬ)とほぼ同じですが、狩衣がトンボ頭で首紙を留めるのに対し、水干は長い紐(首紙の緒)で留めたという違いがありました。首紙の緒は、右襟で留める以外にも全面で蝶結びするなど、様々な結び方があったそうです。

また、前袋の中央、後ろの袖付けや奥袖と端袖の縫い目などに菊綴(きくとじ)があるというのも水干の特徴として挙げられます。ちなみに、菊綴とは縫い目を補強するための力糸として付けられた紐です。補強だけではなく、装飾としても大いに活用されました。

「水干」という名の由来

「水干」という名前の由来は明らかになっていません。しかし、糊を用いずに布を水張りして製していたことから、「水干」と呼ばれるようになったのではないかと言われています。

水干の歴史

水干は元々庶民の日常着として用いられていたものが、地方の武士たちによってファッションに取り入れられたことから武士の装束へと格が高まった着物なのです。

狩衣から水干へ(平安時代12世紀頃)

11世紀頃の中流階級、下級階級の貴族たちは狩衣という装束を日常着として用い始めました。元々鷹狩用の着物として提案された狩衣は、動きやすさが重視された装束であったため、鷹狩のみならず野外の運動着的なものとして活用をされていました。その動きやすさに惚れ込んだ藤原道長が狩衣を日常的に装い始め、中流・下級の貴族たちにもそれが広がっていったそうです。そして、いつしか上流階級の人たちも狩衣を日常的に着るようになりました。

水干もその頃狩衣と同系統の服として広まりました。一説には狩衣から水干が派生したとも言われています。狩衣が平安中期以降次第に官服化していったのに対し、水干は庶民的な服装として庶民にも用いられるようになりました。これが、平安時代末から鎌倉時代にかけて、狩衣と同じように武家に用いられるようになり、武家の常服へと格上げされていったのです。

水干の最盛期(鎌倉時代)

鎌倉時代というのはそれまでの時代とは異なり、鎌倉を政治の中枢としました。このため、京の都とは異なる武家風の文化が発展し、装束の世界も大きく変化しました。上級の武士は礼装を狩衣とし、次いで水干、そして一般の武士は直垂(ひたたれ)を着るというのを装束の序列としたのです。

鎌倉時代初期には、将軍を始め諸大名も社参や謁見の際に水干を用いたそうですが、後には上級武士が狩衣を、水干は専ら中・下級武士、供奉人や児童が用いる服として着られるようになりました。

水干の装い方

水干の装い方は、襟の着方にその特徴が見られます。狩衣のように襟は円領(あげくび)なのですが、これを着物のように垂領(たりくび)に着ることがありました。これは、窮屈を嫌った武士が胸襟を開いてくつろげるようにしたかったところから始まったそうです。そして、円領を垂領として着ることが定着したことで、水干の襟の仕立てにも変化が見られました。襟を留める紐の一つは後身の中央について、襟(首上)を内へ折りまげて垂領に着た時に都合が良い特殊な首上に仕立てられるようになったのです。ちなみに、垂領に着る場合は、首紙の緒はたすき掛けのように斜めに掛け、紐は袖の前脇から出して結びました。

水干の着装法は、水干を袴の中に着こめることが他のものと違い、これも水干の特徴と言えます。これは、水干が簡易な労働着であったことを示しているとも言え、上衣を袴に着こむことは活動するのに都合が良かったからだとされています。

水干ファッション

実は、水干はアレンジ多彩な日常着として活躍しました。

特に、上流武士の平服に格上げされてからは、水干に用いる生地も高級なものに変わり、色目もカラーバリエーションが増えたことで、水干ファッションに幅が出たのです。水干と袴を同じ生地で仕立てた「水干上下」、袖やおくみの部分を別生地で縫製した風流なタイプなどが生まれ、美麗化するなど、水干最盛期は様々な水干ファッションが楽しまれていたようです。

(例1)          立烏帽子+水干+指貫(さしぬき)

公家がよく用いた指貫と呼ばれる袴と合わせて水干を装うものです。指貫は公家が用いた袴ということもあり、高位の者が主に着用していたようです。

(例2)          立烏帽子+水干+水干袴+浅沓(あさぐつ)

水干袴とは、緯糸に葛の繊維を用いて織られる葛布を使って作られた丈夫な袴です。水干袴の地色が地味目な場合は、水干の端袖と衽(おくみ)だけの色を変え、縦に二色仕立てとする風流な水干を装うなどし、お洒落度を高めていました。

(例3)          立烏帽子+水干+水干上下+浅沓

水干上下(すいかんかみしも)とは、上下同じ生地の水干と袴のセットです。上下同じ生地、同じ色味で統一感が出る装いです。現在のスーツのような雰囲気とも言えるかもしれません。

水干の種類

先に、水干は後に供奉人や子供が着る着物にもなったと記しましたが、水干が武士以外の人にも着られるようになると、水干の種類にも幅が出ました。

童水干(わらわすいかん)

童水干は、供の童が着る水干で、色は紫色や萌葱色などが多かったそうです。のぼり(前袋の半分)と端袖の色を違え、金箔で家紋と前袋と左右の袖の外と前に2か所あて、つごう5つ付けるのが基本でした。袖くくりと首の紐は赤皮を用い、袴は葛袴で中ほどから裾をかちんに染め、草、木、花、紅葉などの絵を描きました。

水干狩衣

水干狩衣は、滝口などの武士が着る装束で、上下同色、のぼりと端袖の地質を違え、端袖を金襴などにすることがありました。また、主家の紋を付けたり、草木模様を縫い物にしました

走水干(はしりすいかん)

走り水干は調度懸(ちょうどがけ)や舎人などという下役人の供人の着る水干で、薄香の水干に葛袴を合わせ、薄紙で家紋を6か所付け、袴のくくりをあげて刀をさすスタイルでした。

長絹の狩衣(ちょうけんのかりぎぬ)

礼服としての水干は、童服の装いに残りました。これを長絹の狩衣と言います。長絹の狩衣は水干形式のもので元服以前の童子が用いる礼服です。長尺に折り出した白地の絹布で仕立てた水干で、黒い総の菊綴を縫い目に着けました。公家では円領のまま用い、武家では垂領に着るのがしきたりだったそうです。

現在の水干

武家の時代に大変好まれ、ファッションの一つとしても楽しまれていた水干ですが、残念なことに武家の衰退と共に水干も廃れていってしまいました。現在では、時代衣裳の一つとして目に触れる機会があったとしても、なかなか水干そのものを目にしなくなっています。

女性神職の装束として

女性の神職の方で水干を着られる方がいらっしゃいます。

明治期以降、神職は男性のみが就ける職種でしたが、戦後に女子神職の制度が設けられました。その装束は正装が袿袴(けいこ)、礼装が白袿袴、常装が水干と定められました。その後、1988年に江戸時代の采女(うねめ)の装束を参考に専用の装束が定められたのですが、水干だけは用いても良いとされてきました。そのため、今も水干を常装として用いている女性の神職の方はいらっしゃるのです。

流鏑馬の射手の衣裳として

流鏑馬は元々、武士が鍛錬のために行っていたものだそうです。それを源頼朝が神事として毎年行うようになったことから、今でも神事として神社に奉納されています。

武士が起源となっている流鏑馬だからこそ、当時の衣裳を身に着けて神事としての流鏑馬を行うのがふさわしいとするところから、水干や直垂など、当時の鎌倉幕府の武士が好んで用いた服装を流鏑馬の衣裳として今なお用いているのです。

射手によって水干を着るか、直垂を着るか変わってきますが、チャンスがあれば流鏑馬で水干を見ることができるかもしれません。

まとめ

武家が好んで装った「水干」ついてみてきましたが、いかがでしたでしょうか。


水干は貴族から武家の時代に突入した際に発展した装束で、武家が好んで用いたものだということが良く分かったのではないでしょうか。

元々庶民の平服だったものを昇格させて用いたことから、使われる生地素材も麻などではなく絹や錦など豪華なものになりました。色もカラーバリエーション豊富なだけではなく、単色のみならず部分部分で色を使い分けるなど、かなりお洒落な装いが楽しまれていたというのもちょっとした驚きだったという方もいるかもしれません。

実際に水干を目にする機会というのはそうそうありませんが、時代劇などを見ていると、水干を見つけられることもあるかもしれません。ぜひ、探してみて下さい。

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